つまり推し活のような、そんな試みのふり返り。| いま、ここにあるもの #146



Ver.1.0.1



– いま、ここにあるもの。ここにある想い。-



2024/04/12 on the ferry / JAPAN
Photo by Yutaka Kobayashi





 有難いことに、贈与の循環に関する試みが丸5年を迎えました。おかげさまでこうして、無事に生きることができています。旅する暮らしを始めてからの12年間、本当に沢山の方々に助けていただきながら今日まで生きてきました。そんな日々に対する感謝の気持ちを抱きつつ、この5年間の試みをふり返ってみます。


*


 まず始めに、贈与という言葉の確認です。贈与は、僕の課題本の一つである「 世界は贈与でできている 」の中で、「 お金では買うことのできないものと、その移動 」と定義されています。僕もこの定義をそのまま使わせてもらっているのですが、正直よくわかっていません。腑に落ちるところまで至っていないというか。まだ頭で考えてしまう程度の理解です。


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そんなあやふやな状況で進んでいるのが自分らしいな、と思います。それでもこうして、生きることができているのがとても有難いです。そんな僕なのですが、この5年をふり返って思うのは、「 やっぱり、この世は鏡なのだな 」と。巡らせれば巡ってくるし、奪えば奪われる。とてもシンプルだと実感しています。どういう仕組みでそれが起きているのか、未だにわかりませんが。




そしてここで、試みから得た、現時点での贈与の循環の要点を共有しておきます。


・まずは、自分から巡らせること。
・巡らせるのは、その時の自分に可能なエネルギーや時間。
・善意を前提として、可能な限り相手の想いに沿いながら。
・そのためにも自分自身を満たし、タイミングを信頼する。
・自分が受け取るに値する人間であることを自覚する。
・僕らに与えられているのは、所有権ではなく使用権。
・物質に想いをのせて巡らせる方が、今はわかりやすい。
・とにかく愉しみながら。


ざっくり言えば、この辺りだと思います。もうこれで充分な気もしますが、これらについてもう少し詳しい話を一応、書き記しておくことにします。








– 自ずから巡らせる –



 僕にとって贈与の循環の中で生きることは、これまでの人生の中で一番の生きやすさを感じています。自分や目の前の相手、目の前の世界を信頼して、自分がこれまでに受け取り、もしくは積み重ねてきたものを手渡して。相手の想いに沿い、自分が勝手に想い考えるものを、タイミングやご縁を信頼しながら。そうすることで、この5年間を生きてきました。


もしかしたら、僕の人生の中でうまく人の役に立てたことは全て、そうだったのかもしれません。何にせよこの世界では、起こるべき時に、起こるべき事が起きるようです。その考えを前提に試みを続けてきました。中には、周りに気づかれないまま行っていることもあります。それはそれで、贈与らしくて好きです。開封されないままの手紙のように、いつの日か開かれたら嬉しいなと、ささやかに祈りながら。




この贈与の循環の試みはまず、自分から巡らせることから始まります。損得勘定は手放して、その時点で可能なエネルギーや時間をかけて。自分が応援したいと思える人、感謝の気持ちを届けたい人に対して、何らかの行動をしたり、物を渡したり、もしくは想いを届けたり。善意を元に、目の前の相手の人生に沿いながら、相手の人生を少しでも促せるであろうことを行います。


それがきちんと出来ていれば、必要な物やコトは、必要なタイミングで巡ってきます。自分から動くことで、その瞬間に保たれている世界の均衡を破り、エネルギーを動かすイメージです。この世界には、森羅万象の均衡を保とうとする働きがあるようなので。そして、この世界は真空を嫌うので、空いたところには必ず、必要な何かが入ってきます。これが今の、贈与の循環に対する僕の解です。






– 満たすこと、信頼すること –



 損得勘定なくそれを行うためには、僕はまだ相手を選んでしまいます。それなので、純粋に応援できる、という人に対して、その時の自分にできることを行っています。大切なのは、自分から巡らせた、という実感があること。そしてこの試みは、受け取りまた巡らせ続けるところまでなので、自分に必要な物やコトも明確にしています。明確にしたら、巡らせることに集中して。


例えば、見返りがなくとも応援したいほどの人から、何かが返ってくるのはとても嬉しいです。けれどもそれは、世界最小の循環です。この試みでは願わくば、より大きな循環として世界を巡った後、僕の元にどう届くのかも検証していきたいので。そしてそれを、愉しみながら行います。思考は保留か手放すなりして、素直に心に従って。この人を応援したいと純粋に想うのであれば、理由は不要です。




そんな贈与を継続的に行うためには、まずは自分自身を満たすことが重要でした。旅する日々のおかげでそこは、必要な程度の準備はできていました。そして、タイミングを信頼することも重要です。相手が関わることであれば、相手のタイミングも信頼しながら。逆に言えば、コントロールは手放して。自分から巡らせた後は、ただ待つしかありません。結果が出ようとも、何も起こらないとしても。


そして、自分は受け取るに値する人間であることを認めることも、同時に行う必要がありました。持続可能であることを考えると、巡らせるだけでなく、受け取る準備も必要なのです。そのためにも僕は、自分自身に許可を出す必要がありました。この世界の循環の一部として、受け取ったものを巡らし、自分自身もまた受け取って。それを素直に受け取り続けることで、自分自身の器を少しずつ広げて。






– それをごく自然に –



 僕にとって、心から笑うことや、自分の人生を生きることは、幸せであることと同義です。自分ら、と思える人たちが心から笑っている状態は僕にとって、幸せを表すものの一つです。そして、目の前の人や自分の人生を促す、ということは、そこにつながる道筋です。結果的ではありますが僕の、ファシリテーターという生き方は、贈与の循環の試みと相性がいいようです。


相手との旅や対話から生まれた想いをカタチにするために必要なのことを、可能な範囲で手伝います。目の前の相手が主人公の人生である、ことを大切にして。もちろん、僕は僕の人生の主人公であることも尊重しながらです。それを、楽に行える心持ちを共につくりながら、可能な範囲で応援をして。質は追求し続けつつ、それをごく自然に行うことが、僕にとっての生き方の一つでもあります。




そんな生き方を選んでいるので、他者の人生と自分の人生を切り分ける習慣はついてきました。それに、最大公約数を見つける習慣や、判断を保留する習慣、相手が本当に望んでいることをわかろうとする習慣も。もちろん、100%できているとは言えません。今も変わらず、体験から学び続けています。そして、この先もずっと。それらは贈与の循環の試みにおいて、とても役立つものでした。


僕としては、目の前の相手であれ自分であれ、本人が主体的に、持続可能な状態を作り上げることを前提としています。そして、個々において、自分の人生を生きる以上の目的は存在しないのだと思うのです。誰かや目の前の世界のために生きることも、より自分を生きるために生まれてくるものかと。そんな目的を促すことを、自分が使用権を得た物やコトを活用して行います。






– 何のために使うのか –



 僕は、この世界で僕らが与えられているのは使用権だと考えています。所有権ではなく使用権です。お金にしても物にしても。法律的には所有権になるのでしょうけれど。他にも体験や才能も、何よりこの身体自体も、使用する権利を得ているだけと僕は考えています。何かを巡らせる時、あくまで自分に使用権のある何かを使ったり、渡したりすることで自分にも巡ってくる、と実感するのです。


物やお金、才能や時間など。それらを、自身のエネルギーと共に届けることで循環は始まる、というのが今の憶測です。必ずしも、物質を巡らせなくてもいいのだと思ってはいますが。ただ、カタチのないものよりは、カタチがあるのも巡らせた方が、相手も自分も移動を認識しやすい、という利点があります。そうやって、自分から誰かに届けた、ということを認識できれば最初はいいのだと思います。




この先の世界で改めて課題となるのかもしれませんが、目に見えないものを大切にする意識を、僕らはだいぶ失ったようです。だからこそ今は、何らかの物質に想いをのせて巡らせる方が今は、お互いが認識しやすいです。もちろん、相手に気づかれないよう巡らせるのもありですが、目に見えない祈りや想いなどが相手に届いたのかどうかの判断は、今の僕には出来ません。


それでもこの世界には、物質だけでなく、目に見えない何かが巡っているのは確かです。自分としては、無条件に巡っているそれが「 愛 」と呼ばれるものかも、と考えています。人間だけが持つ「 愛情 」とは別の、「 愛 」と呼ばれるものです。それに沿いながら巡らせることは、この世界に生きる森羅万象の一員としての、ごくごく自然な行為なのだと思います。






– 推し活のようなもの –



 少し前の話になりますが、自分が期間限定で担当していた授業の中で、この試みに関する話をしたら、「 推し活のようなものかな、と思いました。」と話してくれた方がいて。そうか、推し活のようなものか、と妙に納得した自分がいました。確かに、応援したい人を勝手に応援する行為は、今で言う「 推し活 」なのだと思います。


例えば、コロナ禍でもあったように、応援したいお店で買い物をすることも、日常で届けられる贈与だと思っています。他には、日々の決済に電子マネーを使わず、現金で支払うことも同じく。あと、自分の収入や、自由に使えるお金の一部を定期的に、自分が応援したい人のために使ってみるのもいいかもしれません。その人が好きなビールを何本か届けてみるとか、欲しいって言いていた本を贈ってみるとか。


大袈裟なことではなく、些細なところから贈与は起きるのだと思うし、世界中で日々起きています。そしてそれは、便利だからという理由で失われたことにヒントがあるのだとも思っていて。便利であることは嬉しいけれど、不便さの中に僕らの暮らしの基本となることがたくさん詰まっています。文明が進めば進むほど、その根本となる部分を押さえた上で、便利さを求めるのがよいのだろうなと思うのです。


この、贈与の循環の試みで行っていることも、本を正せばその分類に入る、僕らの生きる上での根本となる部分だと考えています。それが経世済民につながるといいな。「 僕があげたものでたくさんの人が幸せそうに笑っていて、それを見た時の気持ちが僕の探していたものだとわかった。」 槇原敬之氏の、この歌詞の通りです。僕はとても素敵な感覚を、この試みで体験させてもらっています。








| 引用 |

世界は贈与でできている / 著 近内 悠太
僕が一番欲しかったもの / 作詞・作曲 槇原敬之


| 参考文献 |

世界は贈与でできている / 著 近内 悠太
ぼくはお金を使わずに生きることにした / 著 マーク・ボイル




おわり




” 「 いま、ここにあるもの 」では、小林豊の独り言をつらつらと書き記しています。この投稿をする1番の理由は自分自身が思い出す為なのですが、それが巡り巡ってたまたま、この独り言を必要としていた人の元に届くのも嬉しいなとも思います。そんな小さな奇跡を信頼しつつ、自分の内側にある想いを言葉にしています。”




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