– いま、ここにあるもの。ここにある想い。-
2019年6月から始めた贈与の循環に関する試みが、5年目に入りました。現時点で想うのは、” 贈る、贈られる世界が ” より広がればいいな、ということです。それと、消費することや等価交換に傾きすぎた僕らの社会は、どうすればバランスを取り戻すことができるのか、ということも。そんなことも含め、この辺りでこの試みをふり返り、体験から得たことを言葉にしてみます。
– 5年目に入った試み –
まずは、人を勝手に応援すること。純粋に、たとえ持ち出しがあったとしても応援したいと思える人を。そして、きちんと応援できていれば、巡り巡って僕も誰かから応援されるということ。この世界は鏡である、という前提になりますが。そんな贈与の循環の中で生きていく、ということを試みています。
その試みが5年目に入った今、これまでをふり返ってみて感じるのが、等価交換を繰り返すよりは、贈与の循環の中に身を置いて生きる方が僕は生きやすい、ということです。試みの中で、いつ、どのタイミングで必要な物やお金が自分の手元に巡ってくるのか、それがわからないことで不安になることもありますが。逆に、絶妙なタイミングで物やお金が届き、この世の偶然な必然に高揚することもあったりして。
そんな一喜一憂も含め、最適なタイミングで最適な出来事が起こるのだと思うのです。そして、その出来事をどう受け止め、どう今後に活かすのかは自分次第。その部分では強くなれたのかもしれません。うまくいかなかったら、うまくいくまで続けるか、うまくいくように軌道修正する。もしくは、止めるという選択肢もあります。それでも僕らは生き続けていくし、世界も回り続けるので。
世界は贈与でできている
資本主義の「すきま」を埋める倫理学
著 近内 悠太 / NewsPicks
https://publishing.newspicks.com/books/9784910063058
この本は、僕の課題図書の一つです。物々交換の試みも加えたこの11年、僕がやってきたことを言葉にしてくれている本だと思っています。未だに部分読みばかりで、全体を通して読めてはいませんが。この本で贈与という言葉の、新しい意味に出逢いました。僕が知っていた贈与は「 金銭や物品を送り与えること 」。そしてこの本では、「 お金では買うことのできないものと、その移動 」と定義されています。
– お金で買えないもの=贈与 –
” 贈与は受取人がいて初めて成立するもので、厳密に捉えると、差出人が自ら意図的に行うことができません。「 自ら 」ではなく、受取人がいるから「 自ずから 」差し出すことが可能になる。そして結果として贈与が成立します。” と著者は語っています。
( 参考:「弱さ」の本質について、ウィトゲンシュタインを軸に思考を解体していく )
わかるような、よくわからないような。けれども何にせよ、物々交換で旅ができるかどうかの試みの頃から続く、巡りの中にうまく身を置けている時と、巡りが滞る時との違いのヒントが、この文中にあるような気がしています。僕自身がこの世界の一員として、巡りの中にすうっと、とても自然に身を置けている時の、とても大切なことが隠されているような。
それと、著者はこのようにも語られていました。” あなたが現れた、あなたに応じなければならない、そのとき贈与が起こる。贈与をするのではなく、贈与が起こり、贈与となる。” この言葉は、「 私 」から始めようとしている贈与に関する語りに対しての抵抗感、から始まった投稿の一部です。
( 参考:近内悠太 ( @YutaChikauchi )さん / X ) )
何にでも当てはまることなのかもしれませんが、起こすのではなく、起こるのであること。とても大切なことだと思っています。何かをしようと行動することはとても大切なことですが、それを思考や執着などに囚われた上で行うのであれば、その多くは意図的に ” 起こす ” になってしまうのかもしれません。思考や執着は手放した上で、純粋に踏み出した行動から、 ” 起こる ” の状況が生まれるのではないかなと。
僕らの人生はきっと、決まってはいるけれど、何も決まっていないのだと思うのです。それでも全ては必然で、僕らは生かされているという感覚の方が個人的にはしっくりきます。そんな世界に身を委ね、思考を手放し、自由意志を持って生きること。もしかしたら、そんな生き方で日々を過ごす人の周りには、世の巡りを促し、それぞれが前に進むための色んな出来事が起こっていくのではないでしょうか。
– 小さな循環と大きな循環 –
ある時、等価交換は世界最小単位の循環、だと思うようになりました。僕とあなたを巡る、とても小さな循環です。けれども僕らは、森羅万象のすべてを包む、とても大きな巡りの中に生きているはずなのに。そう思うようになってから生まれたのが、今の試みです。小さな循環があり、大きな循環があり。それらが世界を覆いながら、僕らの日々は続いているのだという仮説から始まりました。
例えば、そんな仮説から見ると、日本のクラウドファンディングは寄付型の募集を見かけることが少ないなと思うのです。リターン前提だったり、いわゆる予約販売だったり。ちなみに、見返りを求めるのが悪いとも思いません。それも判断基準の一つです。多くの人に望まれる、新しい商品が生まれる機会にもなっていますし。あと、応援してくれた人に還元したい、という想いも素晴らしいと思います。
そんな中で先日、購入型のクラファンだけれども、” とにかく応援 ” という枠をいくつも設け、たくさんの応援を受け取っていたものを見かけました。驚くほどに、” とにかく応援 ” を選んでいる人がたくさんいて。それはきっと、募集主が多くの人と関わり、多くの人が待ち望む挑戦をしているのだろ思うのですが、贈与的観点から考えるとそれは、応援する側にとっても善い循環を生み出すものだと思います。
それこそ寄付は、贈与が起こる機会かと。贈るのは物やお金ですが、確実にお金では買えないものも一緒に動くので。頑張って欲しいという純粋な想いや感謝の気持ちなどが、物やお金と一緒に巡っていきます。しかも互いに、螺旋を描くように。ちなみに、前向きな気持ちでの寄付、というのが前提ですが。しなければならない寄付には、もしかしたら贈与は起こりにくいのかもしれません。
それが受け取られた結果、リターンは生まれるものです。お礼の手紙を書くのも、カタチになった何かに招待するのも。そこでまた感謝の気持ちが巡り、贈与が起こります。先にリターンが決まっているのは、順序が逆だと思うのです。何度も言いますが、それが良いとか悪いという話ではありません。ただ、今の世には割と、考え直した方がいい習慣が意外とあることも事実です。
– 歌われない英雄 –
ここでもう一つ、課題本の著者の言葉を取り挙げます。” あげてしまったことなど忘れたい。私が覚えていたら、それが贈与をけがしてしまうから。” 贈与とはそういうもののようです。起こった贈与は忘れてしまえることが理想のようですね。すべてにおいて、その境地に辿り着けるのはいつになることやら。呼吸するかのように自然と、自ずから巡らせることができる割合を高めていきたいものです。
( 参考:近内悠太 ( @YutaChikauchi )さん / X ) )
あと、忘れるとは少し違うかもしれませんが、課題本でアンサングヒーロー ( 歌われない英雄 ) という言葉にも出逢いました。誰にも讃えられることのない、陰の功労者。そんな人はたくさん存在しているのだと思います。しかも、本人がそれに気づいていないことが多いのかもしれません。何の根拠もありませんが、そんな存在のおかげで、この世は回っているのだと思えます。
ある時から、” 自分は旅をしながら「 終わり 」の練習をしているのか ” と思うようになりました。僕の日々には、宿泊先だけでなく、自分の家を旅立つタイミングがあります。その期限までに、今の自分にできることをやって、あとはその場にいる人たちを信頼しながら旅を続けていくのです。以前は自分がいないとダメな世界を求めていましたが、今は自分がいなくても大丈夫な世界を望んでいます。
それは僕にとって、とても大きな変化でした。物々交換や贈与の循環の試みを含め、旅や対話で向かい合ってきたことが、自ずから巡らせることの背中を押してくれている気がしています。タイミングを信頼しながら、今あるものに目を向ける。その状況で、その時目の前にいる人に協力できることがあれば行うこと。それはもしかしたら、相手に全く気づかれないことかもしれません。
けれども、それはそれでいいのです。相手に気づかれない状態の方がより本質的に、贈与を巡らせたことにはなるはずです。そんな人がたくさん居て、この世界は回っているのだと思うのです。とは言いながらも、気づいて欲しい自分がいるのも確かです。相手にわかりやすく何かをすることで促せることもあれば、そこに存在することでこっそり、相手の人生を促せていることもあったりするので。
– 自分も相手も望むこと率先して –
改めまして、この投稿での ” 贈与 ” とは、 ” お金では買うことのできないものと、その移動 ” です。そこで巡るのは、感謝の気持ちや、優しさや思いやり、そして ” 愛 ” と呼ばれるものだと思っています。僕は ” 愛 ” が何なのかわかっていませんが、人間だけが持つ ” 愛情 ” とは似て非なるものであることは教えていただきました。そんな、” 愛 ” という無条件の何かが僕らの周りには存在しています。
ちなみに、僕が巡らせたものの多くは対話の時間でした。対等な関係性で違いを尊重し合いながら、それぞれが思ったことを言葉にする。その言葉を受け取って自分と向かい合い、また自然と生まれた想いを言葉にする。そんな時間を経て目の前にいる人の人生を促すのが、僕の生業でもありますし。それがこの11年の、物々交換や贈与の循環の中で僕が一番多く巡らせたものです。
相手の話を聴きながら、自分が旅する暮らしを通じて体験してきたこと、気づいたことを共有し、それぞれの発見を深め、身近な人との関係性を高めることを通じて、自分との関係性を高めていきます。そうやって目の前にいる人の気持ちを楽にして人生を促すことが、今の僕の生業の軸であり、今の自分にできることです。そして対話は、今いる場所でできる旅だと考えています。
そんな機会を経て思うのは、やはりこの世は鏡だということです。目の前にいる人が自分の鏡というだけでなく、自分がやったことが見事に還ってくるといいますか。与えれば与えられるし、奪えば奪われるのだと思います。仮にその二択であれば自分は、与え与えられる方を選びます。自分も相手も望むことを、自分が率先して行うのがいいかなと。
今はまだ、お金を余分に持たずにどうするか、という体験の最中のようなので、お金以外で何を巡らせるのか、と考える機会がたくさんありました。けれどもこの先は、お金を充分に持った上で何をどう巡らせるのか、という状況に入っていきます。その時にも同じように、思考や執着を手放し、贈与を巡らせられるかどうか、だと思うのです。それに向けての、この11年ほどの体験だと思うので。
実際、浮世離れした状況で物事の本質に触れるのは、意外と簡単だと思います。客観的に見ることができるので、大切なことに気がつきやすいです。けれども僕は人間です。それなので、人間の中にいるのが自然なのです。その自然な状態で、浮世離れしていた時に気づいた本質を大切にしながら、日々を過ごすことができるのかどうか、が大切だと思っています。
僕にとってそれは、簡単なことではありません。僕だけでなく、家族や友人たちも絡んでくるので。相手や自分と向かい合う機会が、必要なタイミングで必要な分だけ生まれてくれます。けれどもそれは、前に進むための、自分が自分で在るための機会なのです。そこからまた気づきを得て、修正しつつ実践して、また気づきを得て。この先も、その繰り返しのようです。
– 贈り贈られる世界がより広がること –
物々交換や贈与の試みを経て僕は、贈り贈られる世界がより広がること、それを素直に望んでいます。大切な自分や家族や友人、目に映る人やこの地球で共に生きている人たちで、より巡らせ合いながら生きていきたいです。贈与を日常で行っている人は、きっとたくさんいます。どうすればそれがより広がるのか、それをこの先の試みの中で模索しながら、実践していきます。
こうやって書いていて気づいたのですが、対話が文化になることに加え、贈与に関することもきっと、僕が胸を張ってこの世を去るための、自分の力を注ぎたいものの一つのようです。何をどうすればいいのか、わかっていませんが。より贈与が巡り合う世界に向けて、そのきっかけの一つとして自分も一翼を担っていきたいです。微力ではありますが、偏ってしまったこの世界を、少しでも中和できるように。
それならばきっと、今日までの過程の中での歓びや有難さ、悔しさや情けなさなど、僕の一喜一憂を含めた、この11年の体験が活きてくるのだと思います。こんな試みをしていることで、周りの人の優しさや情けに助けられながら今日まで生きてきた、という事実はこの先も消えることはありません。馬鹿にされたり否定されたことも含め、色んな想いに背中を押してもらいました。それらがとにかく有難いのです。
それと、最後にもう一つ。自分が身につける物や自分が使うものは、人から感謝の気持ちをのせて届けてもらったものがいいな、と改めて思っています。靴や服、手帳やカメラなど、常に一緒に旅をしている物たちがあります。例えば靴を履く度に、カメラを手にする度に、自分が受け取った想いに触れる機会があるのです。誰かの想いや優しさ、感謝の気持ちなどを受け取り、共に日々を過ごしていきたいので。
僕が必要としている物は下記のリンク先で更新しているので、よかったら僕に贈与を巡らせてください。その結果、あなたがどんな日々を送ることになるのか、それも含めて教えてもらえると嬉しいです。
心からのありがとうを、巡らせ合える世界へ。
– 提供できること・必要なもの一覧 –
お陰さまで僕は、とても心豊かな日々を過ごさせてもらっているのです。その要素を一人でも多くの方に共有できるように。もちろん僕以外の人でいいので、家族や友人、もしくは応援したいと思える誰かや道端ですれ違った人に対して、” 贈与が起こる ” という体験をしてみてください。見返りが不要だと思える人に対して、ささやかな事からでいいので。
素直に、あなたの心に従って。その行動はきっと、あなたの日々に彩りを与えてくれることになるはずです。そして、そんな体験を経て僕と対話しましょう。もしくは、それをわかってくれる人、受け止めてくれる人と。そうすれば、” 贈与が起こる ” という体験を深めることができるはずです。そうやって、僕らが既に受け取ってきた ” 贈与 ” を、自分の目の前の人たちに巡らせていきましょう。
おわり
” この「 いま、ここにあるもの 」では、小林豊の独り言をつらつらと書き記しています。この投稿をする1番の理由は自分自身が思い出す為なのですが、それが巡り巡ってたまたま、この独り言を必要としていた人の元に届くのも嬉しいなと思います。そんな小さな奇跡も信頼しつつ、自分の内側にある想いを言葉にしています。”
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◻︎ 暮らしている場所の予定、などを更新しました。| お知らせ【 11/18(月) 】
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これまでもこれからも
心がおどる、たのしい日々を。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。
– 自分らしく、しあわせに生きること –
COBAKEN LIFESTYELE LABO
1977年、広島生まれ。ファシリテーター。広島県竹原市と岩手県盛岡市の二拠点生活+旅。スキナコトヲ スキナトキニ スキナトコロデ、とういう生き方。ファシリテーターとして促すのは、目の前の相手の人生。
詳しいプロフィール ⇒ cobaken.net/profile