七転び八起き。| 歩く速さで #039 – 2025.09.14 –



Ver.1.0.0



– 現在地からの、友への便り。-






– 七転び八起き –


白露 二〇二五年九月七日〜九月二十二日




 変わらず元気にしていますか?僕はそのまま、盛岡で過ごしています。今日は妻の出店で盛岡市の隣の滝沢に来ているのですが、その会場であるビッグルーフ滝沢は、地方の複合施設のお手本となる場所だなと、ここに来ると毎回思うのです。コミュニティセンターと図書館、産直とレストランがあり、日曜日である今日は、常設の椅子とテーブルがたくさんの人に使われていて、とても賑わっています。


特にいいなと思うのは、学習コーナーやロビーで学生たちが勉強していることです。自転車で行ける場所が限られているのもあるのでしょうが、休日に一人で、もしくは友達と一緒に無料で過ごせる場所があるのは、とても良いことだと思うのです。図書館の自習室よりも解放的で、話しながら過ごすこともできるので。子育て世代も居て、公共施設の役割をきちんと果たしている場所だと思えます。


民間の、現金を使うことで滞在できる場所の対極として、こういった場所があることはとても大切なことだと考えています。今では開放的な図書館も増えてきましたし、公共施設においても変化しているタイミングなのでしょうね。竹原でもこの後、市役所跡地に複合施設が計画されています。そこが市民にとって、休みの日に訪れたくなるような場所であることを祈っているので、気になるのかもしれません。


*


 最近の盛岡は、最低気温が10度台になり、過ごしやすくなってきました。太陽が出ている時はきちんと暑いのですが、昼間でも虫の音が鳴り響いています。日が暮れるのも早くなってきましたし、着々と秋を感じられる要素が増えました。南の方はまだまだ暑そうですね。気温を見る限りでは、杪夏ともいえないような状況に思えてしまいます。予定通り竹原に戻れたら、また夏を味わうことになりそうです。


例えばこの時期に盛岡から竹原に戻ると、秋から夏に季節が戻った感覚になります。春先に竹原から盛岡に戻れば、春から冬に戻る感覚に。夏にしても冬にしても、そうやって季節を逆戻りして味わうと、身体がキツかった印象があります。年を重ねたから、かもしれませんが。ちなみに、春や秋に季節が戻った感覚の時はとても気持ちがいいですね。季節の盛りから抜け、一旦解き放れた感覚になります。


春夏秋冬という順序にもきっと、大きな意味があるのでしょうね。長い年月、その順序に合わせて生きてきたから、それに馴染んでいるだけなのかもしれませんが。夏や冬の盛りを越えて、秋や春を迎えることのありがたさといいますか。暑い夏を越え、実りの秋を迎え、寒い冬を越えて、春の芽吹きを喜ぶ。それを五感で感じられる場所でこの先も生きていきたいなと思います。


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 そんな場所で生きていれば僕も、自ずと大人になっていけるのだと思います。肉体の成人は二十歳くらいだとしても、精神面の成人は早くて五十歳過ぎ、できれば還暦を迎える頃だと思えるのです。それまでは大人ではなく、頭でっかちな子供なのだと思っています。少なくとも、僕はそうです。人の成長過程とは、無邪気な子供が頭でっかちな子供になり、その先で無邪気な大人になっていくものかと。


ただ、今の社会では、人々が無邪気な大人になることを望んでいないように思えます。社会の歯車である僕らは、扱いやすい頭でっかちな子供であることを望まれているような感覚です。その作戦がうまくいったのか、傍若無人の先輩方を見かけることが増えました。肩書きや立場から解放されて、改めて自分の人生を謳歌されているのでしょうか。年齢を重ねてから欲求のズレを手放すのは、とても大変な作業です。


大人であるかどうかを判断するための最たるものは、自分の機嫌を自分でとれるかどうか、だと僕は考えています。外側の要素に機嫌を左右されているうちはまだ、大人になりきれていないかと。他には、自分ごとで生きているかどうか、自分の価値を自分で決められているかどうか、を自分は挙げます。そのどれもが道半ばではありますが。ほんの少しずつでも、大人に近づいていくことにします。


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 そういえば先日、妻に伝えた言葉が自分に返ってきました。いつものことですが。今回は、きちんと決断する、ということです。きちんと決断できていなかったな、と自分を顧みました。これだから、身近な存在との対話は腰が重いのでしょう。より明確に映し出してくれる鏡なので。とてもありがたい存在ですが、言えば言うほど自分に返ってきます。子を叱るともなれば、自分を指摘しているのと同じだし。


逆にいえば、人に伝える機会を通じて、自分に伝えているということですね。面白いです。この世は本当によくできているな、と思います。相手に見出せることは、自分も持っているもの、もしくはやっていること。表面上では違っていても、同じ要素がそれを生み出してくれていて。結局はそれを、自分ごとで捉えられるかどうかだと思うのです。ここでも、大人であるかどうかが問われますね。


自分で選ぶにしても、流れに身を任せるにしても、何にしても決断は必要です。出発すると決めたのであれば、その日に出発する。もしも、移動手段を得られていなければ、歩いてでも移動を始めればいいわけで。そんな気概で物事を決断していなかったなと反省です。そういえば、決断する、というのは最も力のある言葉だと、一緒にアジア旅をしている時にダイキが教えてくれました。


*


 さてさて。次の二十四節気はもう、秋分を迎えるのですね。早いもので。お彼岸には竹原に戻れたら、と思っていたのですが、ズルズルと出発の日が延びてしまっています。先に書いた通り、決断することが出来ていませんでした。旅立つためには移動手段や道中の宿泊先が必要だけれど、今はそれを受け取れる自信がなくて。だから誰かに胸を張って伝えることが出来ていませんでした。


家に居る時は応援を受け取りにくい。これは僕の中にある思い込みの一つです。竹原でも盛岡でも。単に、心身を休めるために人と関わることが少ないから、だとは思うのですが。けれども、関わりが少ないから受け取れない、も思い込みだと思うのです。この部分も交換の論理に支配されていて、手放して書き換える必要がある部分です。そうやって交換の論理を手放せたら、とてもとても楽になりそうです。


何にせよ、上手くいくまで何度でもやればいいのですよ。生きているかぎり何度でも。幸い、自分は諦めが悪いので。単に、有言実行できる自分でありたいです。それなので、言ったことを実行できないなんて恥ずかしいし、とても悔しい。けれども、恥ずかしいは不要だと今では思えます。結局は、自分との約束を守りたいだけなので。たとえ不恰好でも続けてみます。諦めたら、そこで試合終了です。




二〇二五年九月十四日

小林 豊





2025/09/02 MORIOKA / IWATE / JAPAN
Photo by Yutaka Kobayashi




2025/09/04 MORIOKA / IWATE / JAPAN
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2025/09/08 MORIOKA / IWATE / JAPAN
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おわり




” 「 歩く速さで 」では、小林豊の現在地から届ける友人への便り、として言葉を綴っています。二十四節気の暦に沿ってお届けできたらと。そんな便りの中で僕の、日々の些細な出来事を通じた気づきを貴方に共有させてください。それが結果的に、互いが生きる日々にとって、より佳きものになれば幸いです。”




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