– 現在地からの、友への便り。-
– 可能な限りの受容と信頼を –
秋分 二〇二五年九月二十三日〜十月七日
変わらず元気にしていますか?僕はそのまま、盛岡で過ごしています。予定していた日までに移動手段を受け取ることができず、二度延期することとなりました。次は明日が予定日なのですが、未だ受け取れていません。兆しを感じる要素もないので、再度延期することになるのかも。もしそうなれば悔しくはありますが、それもまたタイミングということで、状況を愉しむことにします。
幸い、同じ場所で過ごしていても、旅ができるようにはなりました。ちなみに、ここでいう旅とは、違いに触れることで己を知る行為です。どこか違う場所に行く方が違いに触れやすいので、人は旅に行くのだと考えています。僕も旅が得意ではなかったので、こんな生き方を選ぶことになりました。この13年をふり返ってみるとそう思えます。以前に比べれば、少しだけ旅が得意になってきたとは思えますが。
そういえば先日、旅する暮らしが丸13年を迎えました。そんなタイミングでちょうど、旧Twitterへの投稿のために12年前のアジア旅をふり返っているのですが、色んな思い出が蘇ってきて面白いです。写真がタイムマシンでもあることを実感しています。よくこんなことを続けてきたなと、自分を褒めてあげたいです。何より、そんな僕を応援してくれたすべての人たちに、心からの感謝を届けてまわりたいです。
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そんな機会の中でふと、自分の生き方は社会に対するアンチテーゼでもあったのか、と思いました。そう思って始めたつもりはありませんが、今ふり返るとそう思えたのです。本来、少数派も含めたすべて人を社会と呼ぶはずなのに、多数派のみが正しいように扱われる。小さな町に生まれ育った自分の中に、それが違和感として存在し続けていました。今の自分から昔を眺めると、それを認識することができます。
けれども当時はそれに気づかず、実態のない社会や正解のない常識に合わせようと、必死に頑張ってきました。そのおかげで、大人とは何なのか、という問いが生まれたのかもしれません。自分も含め、自分らは本当に大人なのだろうか。肉体のみが成人した、ただの頭でっかちの子供なのではないのか、と。問題は自分の内側にあるのに、人や状況のせいにして、変化に抗おうとする、ただのガキではないかと。
本当に大人であれば、自分がされて嫌であろうことを後輩に押し付けるようなことはしないだろう。人々が本当の意味で幸せに過ごせるよう、力を注ぐだろう。けれどもその多くは、人の可能性も自分の可能性も頭ごなしに否定し、変化に抗おうとする。お山の大将であることにしがみついて、よりよき未来に向かうことを拒絶して。ただ、それもまた自分自身の鏡だと思えます。心が強くない、僕自身の姿です。
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そんな世や自分自身を受け容れるために始めた旅であった、とも思えます。当初は、知らない世界を眺めることで、知らない自分を知りたい、という想いを抱いて旅を続けていました。自分探しではなく、自分の中にある自分というものを知りたい、という感覚です。そのためにはたくさん自分と向かい合う必要がありました。自分のすべてを受け容れるためには、見たくない自分にも眼を向ける必要があるので。
旅を始めた当時はまだ、痛みから学び成長する時代でした。見たくもない自分に眼を向けるのは苦行のようなもので、修行僧と称される機会が何度もあったことを、書きながら思い出しました。数年経った頃から、愉しむことで学び成長する時代に変わりました。学び成長するということが一歩、本質に近づいた感覚です。愉しむということに戸惑いつつも、自分との向かい合い方が変わり始めた実感があります。
愉しむとは何か、と訊かれたら、未だに理解できていない部分も多いですが、楽しいとは違う、ということはよくわかるのです。外的要因で起こる感情ではなく、内側から湧き起こる感情と言いますか。喜怒哀楽のすべてをそのまんま受け止め、そのうえで内側から生まれてくる感覚です。心が躍る、魂の歓びなどと表現されるような。心地いいも同じような感覚だと思っていますし、気持ちいいは楽しいに近いかと。
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秋分を迎え、冬至に向かう今、自分の内側で起こる対話の割合が増してきたのかもしれません。今の暮らしの中では、家族以外と接する機会はほぼありませんし。そんな環境が余計に、自分との対話を促してくれています。12年前の、アジアを旅していた時のような大きな広がりはありませんが、暮らしというリアルな要素から、たくさんの気づきを与えてもらっています。些細なことから深い部分まで。
そういえば先日の朝、ごみを捨てに行った時、カメラが壊れても尚、スマホで景色を切り取り続ける自分は写真家なのだな、と思ったことがありました。いつの間にか、写真を撮ることがこんなにも、自分の日常に含まれていたことを実感したのです。カメラがあるから撮るのではなく、自分が置かれた状況で成し得ることをする。これならばきっと、自分を写真家と認めてもよいのだと思えました。
そんな風に何でもない瞬間からでも自分を知ることができますし、ここ数ヶ月は疲れた、情けない、悔しい、恥ずかしいなど、ネガティブな感情に触れることも多くありました。総じて、頑張ることをいかに手放すか、ということにつながっているように思えます。努めることは大切だけれど、頑張るのは違うのだと。心を楽に、平穏に保ちながら、その状況を愉しむことが重要だと思うので。
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さてさて。今日で九月が終わり、今年も残り三ヶ月となりました。早いなぁ。今は何となく、明日も旅立てないのかもと思っています。盛岡でまだやることがあるのか、贈与の循環の試みについて更に掘り下げ、修正する必要があるのか。何にせよ、贈与の循環の試みについては、修正するところはたくさんあります。そろそろ、現時点での体験からの学びを記事にまとめた方がいいとは思いつつ。
旅する暮らしを続けてきた中で、判断を保留することができるようになり、モヤモヤした心境でいることも嫌ではなくなりました。今の世を生きるためには、追い風となる要素だと思っています。けれども、保留していることの中で、もう実行できるのに実行していないものが溜まっていることを、長い間見逃していました。自分の容量のことを考えると、先延ばしにしてきたことを昇華できるとよさそうです。
そうやって、自分の内側に余白をつくりつつ、丁寧に日々を暮らしながらタイミングを待つことにします。自分の機嫌は自分で取りながら。余白ができればできるほど、そこに何か入り込んでくれるでしょう。どんな状況であれ、タイミングを信頼しながら愉しんだ者だけが前に進めますもんね。楽しみつつ、愉しむこと。他人ごとではなく自分ごとで。喜怒哀楽のすべてを大切にしながら。
二〇二五年九月三十日

2025/09/19 MORIOKA / IWATE / JAPAN
Photo by Yutaka Kobayashi

2025/09/23 MORIOKA / IWATE / JAPAN
Photo by Yutaka Kobayashi

2025/09/29 MORIOKA / IWATE / JAPAN
Photo by Yutaka Kobayashi
おわり
” 「 歩く速さで 」では、小林豊の現在地から届ける友人への便り、として言葉を綴っています。二十四節気の暦に沿ってお届けできたらと。そんな便りの中で僕の、日々の些細な出来事を通じた気づきを貴方に共有させてください。それが結果的に、互いが生きる日々にとって、より佳きものになれば幸いです。”
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これまでもこれからも
心がおどる、たのしい日々を。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。
– 自分らしく、しあわせに生きること –
COBAKEN LIFESTYELE LABO

1977年、広島生まれ。ファシリテーター。広島県竹原市と岩手県盛岡市の二拠点生活+旅。スキナコトヲ スキナトキニ スキナトコロデ、とういう生き方。ファシリテーターとして促すのは、目の前の相手の人生。
詳しいプロフィール ⇒ cobaken.net/profile