【 旅が僕に教えてくれたこと #010 】愚痴ではない、前向きな愚痴。


Ver.1.0.1



– 旅が僕に教えてくれたこと –


小林 豊、という人間が旅を重ねてきた中で、自分が体験し、感じたことを自由に綴るエッセイ、「 旅が僕に教えてくれたこと 」。ⅹ回目となる今回の投稿では、愚痴ではない、前向きな愚痴、というテーマで言葉を綴りました。




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多くの人が愚痴だと思っているものは、実は愚痴ではないものが多くて、より納得感のある、自分らしい幸せな人生を生きるための対話の1部だと僕は思います。ただ、それをひとつの想いや考え方として受けとめ合える環境が少ないので、そんな対話の場が増えていけばまた、毎日がより充実したものになっていきそうですね。


怒った女の子


「 愚痴ばっかり言ってごめんね。」


ふたりで対話している中で意外とこの言葉を耳にしてきました。「 愚痴って思っとるんじゃね。俺は別にそんな風に思ってないよ。」なんて言葉を相手に届ける、そんないつもの返答も差し込まれながら、このあとも対話は続いていきます。


ちなみに、愚痴、とは


ぐ‐ち【愚痴/愚×癡】

1.[名]言ってもしかたのないことを言って嘆くこと。「くどくど―を並べる」
2.[名・形動]《(梵)mohaの訳。痴・無明とも訳す》仏語。三毒の一。心性が愚かで、一切の道理にくらいこと。心の迷い。また、そのさま。


僕と対話してくれる人たちはみんな、自分の行き先を持っていろんな話をしてくれます。だから、言っても仕方のないことではなく、その行き先に向かうためのこと、と感じることが多いので、僕のまわりでは愚痴を言っている人はいない、と思っています。

ちなみに、仏語としての意味の方で考えてみると、心の迷い、という部分では当てはまりますが、心性が愚かで一切の道理にくらい、そんな風に感じることはありません。なのでむしろ、もっと胸の内にある想いを吐き出して欲しいくらいです。


この心境を自分なりに考えてみた時に、嫌がられる、とか、嫌われる、という言葉が浮かんできました。そんな風に思う理由はいろいろあるのでしょうが、そんなことで相手を嫌うくらいなら、僕はこんな暮らしをしていないですね。

僕は今、とてもありがたいことに、こうしてたくさんの人に応援してもらって、旅する暮らしを続けることができています。その反面、人から煙たがられることもあれば、避けられることもあり、それからすれば、愚痴ではない愚痴、を聴くことで人を嫌いになることなんてありません。


もしそれでも気になるのであれば、愚痴ばかりでごめん、と都度、発言に対して謝られるよりは、聴いてくれてありがとう、感謝される方が格段にうれしいです。今でこそ大丈夫ですが、話を聴き続ける時に、ごめん、と謝られてばかりだと、その人が持つ闇に引きずり込まれてしまうような、昔はそんな感覚によく陥っていました。


雲間の光


僕は旅先で対話をしながら暮らしています。その対話の場には、勝とうとするものは存在しません。なぜならば、対話の目的は探求や発見であり、議論のように何かを決める場ではないので。あくまで基準はその場の個々に委ねられる、そんな場です。

従って、対話の場に間違いは存在しません。なので、正解、というものも存在していなくて、それは今の日本の社会とは違う、非日常な場、となるのでしょうね。その非日常の場である対話を毎日の暮らしに取り入れて、毎日の暮らしに活用してもらいたい、と思っています。

そうすれば、愚痴ではない愚痴、もその人の感じていること、考えていること、として話しているだけのことですし、別にいちいちダメなことをしている、という感覚に陥ることも減ると思うのです。


正解かどうかの判断を相手に求めること、は、上下関係を相手に求めることと同じこと、だと僕は思っています。どちらかといえば、正解を与える側よりは、正解をもらう側の方が責任もないし、気持ちの上で楽なのでしょうか。それとも子供のころからの習慣なのでそれが当たり前なのでしょうか。

誰かが答えを教えくれることほど簡単で、そして身に付きにくいことはない、とも僕は思っています。教えてもらうことも時には必要ですが、最終的にには自分で答えを探し、自分で選び決断したという認識のもとに毎日を生きること、それが必要なことではないかなと。


ちなみに私は対等な関係性で人と接したいです。上とか下とか、そんなものがそもそも存在しない関係性で、相手が体験し積み上げてきたことに対して敬意を払えども、平伏すことはありません。それに、年長者だけに限らず、子供に対しても敬意が払える自分でありたいです。

とはいっても、植えつけられたものは非常に根深く、今でこそこんな自分ですが、上に立ちたい、教える側になりたい、認められたい、とそんな自分の心の声が強く言動に表れるくせに、責任は取りたくない、自分が好きなようにしたい、人と関わるのがめんどくさい、など、それを望まない声も実は存在していて。


そんな矛盾した自分の内面と折り合いをつけ、受け容れること、それが1番必要なことなのでしょう。片側だけの、例えば強い自分だけを認めてしまえば、その反対にいる弱い自分を否定することになり、そんな自分には目を向けたくないという心境が生まれてくる可能性も高まります。

どちらか一方だけだと、人は実相、つまり対極の中心にある核となる部分に触れることができません。片側だけの自分、例えば強い自分だけを見ていても自分の本質は見えてこないのです。強いということは弱いということで、人の上に立つということは人の下に立つということ。

その両側に目を向けられたとき、本来の自分に触れることができるのだと私は思っています。


陽の筋道


まわりと対等な関係性でありながら、自分が主体的に生きていることを自覚して、人と人の間には公平性を計るための基準を、しかもそこに関わる人たちが事前に合意した基準を持って、僕は生きていきたいです。

歓びも哀しみもまわりと分かち合い、怒りなどの感情を腹に溜め込まず、真っすぐ自分を見つめながら言葉として外に発していきたいと思っています。自分でその感情を流せるのであればいいですが、そうでないのなら人に話して自分の内側から手放せばいいのです。


なのでいくらでも、まわりの仲間が発する、愚痴ではない愚痴、を僕は聴き続けることができるし、それによってお互いが、そんな自分にも OK が出せれば、先に話したような対極の中にある実相に目を向けることができるでしょう。

実際のところ、本当の愚痴を言い続けて変わらない人は、僕の前には現れることはできないのです。いわゆる辞書にあるような愚痴をこぼす人には、ここ数年出逢ったことがありません。出逢うすべての人が自分自身の行き先を持ち、速さは違えどもそれぞれがそこに向かって歩んでいる人たちばかりです。


以前、言ってもしかたのないことばかり言い続け、すべてを他人ごとにして自分を見つめることができない、そんな発言をくどくどと耳にしていた時があったとすれば、それは他でもない僕自身の姿を現してもらっていたのだと思います。

それが今はほんの少し、自分ごとの世界の中で生きることができているようです。これもすべて、今のこの旅する生活を応援してくれているすべての人たちのおかげ。苦言を呈してくれる人や否定的な意見でも伝えてくれる人たちも含めてのおかげです。ありがたいことですね。




さて、話を愚痴に戻します。

多くの人が愚痴だと思っているものは、実は愚痴ではないものが多くて、自分の人生を生きるための対話の1部だと私は思います。ただ、それをひとつの想いや考え方として受けとめ合える環境が少ないので、そんな対話の場が増えていけばまた、毎日がより充実したものになっていきそうですね。




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