– 旅が僕に教えてくれたこと –
小林 豊、という人間が旅を重ねてきた中で、自分が体験し、感じたことを自由に綴るエッセイ、「 旅が僕に教えてくれたこと 」。8回目となる今回の投稿では、遠慮するからこそ口を出す、というテーマで言葉を綴りました。
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私は私の人生を生きたいから、だから胸の内側にある想いをきちんと外へ出しながら毎日を過ごしていきます。そのためにも、遠い将来のことまでよく考え、でもそれを手放した穏やかでフラットな毎日を。なので、遠慮するからこそ口を出す、そんな選択肢もありだと思っています。
えんりょ
【遠慮】
《名・ス他自》
1. – 他人に対して、言葉や行動をひかえめにすること。「彼に―して発言を控える」
2. – 江戸時代、士分・僧におこなった刑罰。門をとざし、昼間の出入りをさしひかえさせた。
遠慮、という言葉を辞書で調べてみると、このように記載されています。言葉や行動をひかえめにすること、それが今、私たちが使っている遠慮の意味です。その、遠慮、という言葉、もともとは、遠くを慮る ( おもんばかる ) 、遠い将来のことまでよく考えること、という意味で、論語の中にこんな言葉があります。
子曰く、人にして遠き慮り無ければ、必ず近き憂いあり。
人として、遠い将来のことまでよく考えないと、必ず近いうちに身近な心配事が起こってしまう、そういう意味の言葉です。ちなみに「 遠慮しておきます。」と控えめにするというのは、江戸時代頃から例が見られるようになった、とありました。
先のことを考えるから、早い段階で Yes や No と伝える。
先のことを考えるから、自分の意見をきちんと言ってみる。
こういった行為も遠慮の一環だと私は勝手に思っています。人といい関係性を保ちたいと思うから、お互いが思っていることをきちんと伝えられるようにコミュニケーションをとる、ということです。
言わないで我慢して我慢して我慢して、ふとした時に爆発してぶちまける、それよりは断然いいと私は思っているので。それもまた、相手の関係性をより強くする出来事になる場合もありますが、私はそんな出来事ではなく、普段からお互いの思いや考えを共有して関係性を深めたいと思っています。
そもそも、我慢、という言葉は、我、慢心、自分は正しいけど、という状態で、納得している訳ではないのです。自分の方が正しいけど黙っておこう、となるのであれば私は、オブラートに包んででも伝えた方がいいと思っています。
私の方が正しいのに、と、口にしなくてもそう思って人に接していると、人から正しさを押し付けられる、そんなやりとりを何度も目にしました。私自身もそんな経験があります。口にしていようが、口にしていましが、どうやら結果としては同じことのようなのです。
私はファシリテーションを学びはじめて、次の春で8年になります。その間、人と人が話をする場に関わりながらその姿を見てきました。そしてここ数年は個人が集うダイアログの場に特化した場を設けて続けています。
ダイアログをすることでまさに、そのような関係性で人と関わることができるのですが、そこには違いを前提としていることであったり、自分と相手に対する敬意、それに正解・不正解を求めない環境であったり、と、人とのコミュニケーションの前提となるものが必要です。
でも、私たち日本人の多くはそれが苦手で、自分の中の正しさを相手に押し付け合う、そんなコミュニケーションをとっている人をよく見かけてきました。何より私自身がそんなコミュニケーションをとってきたので、よくわかります。
相手に正しさを押し付ける、ということは、自分に正しさを押し付けられる、ということであり、相手の違いを受け入れる、ということは、自分の違いを受け入れられる、ということであり、結果、自分自身がどう目の前の人と関わるか、それによってコミュニケーションが変わってきます。
ダイアログで話す関係性では、自分の思っていること、考えていることを自然と共有して、お互いを尊重し合えるので、腹に溜め込むことをしなくなります。違いも受け入れることができるようになり、自分自身に対する許可も広がって、毎日がとても楽に穏やかに過ごせるようになるのです。
ちなみに、溜め込んだとしても自分でキレイにそれを消化できるのなら問題ない、そんな風にも思います。ただ、感情、特に怒りなどの負の感情を腹に溜め込むことが問題で、その感情は怒って爆発することが1番簡単な発散方法であり、それ以外ではなかなか流すことはできません。
自分が思っていることを素直に伝えてることで、それでもし目の前から相手が離れるのであれば、どちらにしてもいつかその日がくるのでしょうから、それが今なのか、1年後なのか、そんな違いでしかありません。とはいっても、厳密には簡単には言い切れない、その人との縁があるので一概には言えませんが。
その人が受けとめてくれないのであれば、もしかしたら自分自身も受けとめることができていないのかもしれない、先に書いたものと同じことですが、私は人を自分の鏡と捉えてコミュニケーションをとっています。心の状態がいい時は、ですが。
言葉や行動を変えると離れていく人、その人は私の言動に寄り添っているだけであって、私の存在を承認してくれているわけではないです。存在に寄り添うこと、存在に寄り添われること、それをしながら私は毎日を過ごしていきたいので。
地位や肩書き、職業や収入、言葉や行動など、表側のことしか見えない人との関係性に対して何を怖れる必要があるのでしょうか。もし怖れるとしたら、そんな表側の世界しか見ることができない自分自身、自分という存在への承認が自分自身でできていない、ということを私は怖れます。
私は私の人生を生きたいから、だから胸の内側にある想いをきちんと外へ出しながら毎日を過ごしていきます。そのためにも、遠い将来のことまでよく考え、でもそれを手放した穏やかでフラットな毎日を。
なので、遠慮するからこそ口を出す、そんな選択肢もありだと思っています。
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1977年、広島生まれ。ファシリテーター。広島県竹原市と岩手県盛岡市の二拠点生活+旅。スキナコトヲ スキナトキニ スキナトコロデ、とういう生き方。ファシリテーターとして促すのは、目の前の相手の人生。
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