また季節が移ろいで秋分を迎えることとなりました。早いものですね。秋分の日の前後3日がお彼岸ということなので、今日までが秋のお彼岸のようです。
先日、普段乗ることのない朝の満員電車に乗ったのですが、池袋駅から大崎駅までの埼京線、それと大崎駅から品川駅までの山手線で、ぎゅうぎゅうなのおしくらまんじゅう時間をほぼ汗を流さずに過ごせたのは、まさに「 暑さ寒さも彼岸まで 」の言葉どおり、お彼岸の今だからなのかもしれません。
そんな秋の感じ方もありかな。
ということで二十四節気の仲秋、秋分のひとりごとをお届けします。
さて、ここ最近特に、出来事の向こうの向こうにあるもの、それに目を向けたい、と強く思っている自分がいます。表面的なものや処方箋的なものにあまり興味がなくて、物事の本質、もしくは根本、もしくは実相といわれるものに目を向けたいと思っている次第です。
それはただ、僕の勝手な願望であり、勝手な想いであり、まわりがそれを求めているかどうかはわかりません。まわりに関してはどちらかというと、物事の本質に目を向けるのが怖い、といった印象の方を多く感じます。
それに、自分がそこに目を向けられているのかどうかもわからないし、まわりがそれを求めていないかもしれない、という仮説から考えると、まずそもそも、僕がそこに目を向けることを望んでいない、怖れている、ということを映し出してもらっている、という解釈がひとつの小林豊流の受けとめ方です。
もうひとつは、まわりがそれを求めていなくてもあなたは本当に求め続けるの?、というお試しが頭に浮かびます。本当にそれを見続けるのか、まわりの応援がなくてもそれを見ようとするのか、そんなお試しを僕に与えることを自分が望んでいる、という解釈がもうひとつの小林豊流の受けとめ方です。
旅しながら生きてきた中で、いつのまにか手にしていた目の前の出来事の受けとめ方の視点が、自分を知る上でとても役に立っていて、自分以外の言動が自分にとってどんな意味があるのか、そんなことを考えるきっかけをもらいながら、僕らは毎日を生きている訳です。
こんな自分とまわりとの関係性の中で自分のことを知れば知るほど、知らない部分が見えてきた結果、どんなにコミュニケーションを学んでも、人を理解することなんてできない、そう思います、人の想いに沿うことはできたとしても。
だからただ、自分がやりたいと思うことを続けること、自分にウソをつかない毎日を過ごすこと、結局すべては自分次第、自分の心次第というところに帰属するのです。そしてそれを自分の責任、自分ごとでやり続けること。
自分のやりたいことをやりながら生きても、人の言うことに従って生きたとしても、どちらにせよ生きているだけで人に迷惑はかかるし、同じ出来事でも迷惑だと思う人、思わない人がいて、その部分はその当事者次第だから、そこはその人にお任せするとしましょう。
要は、もし迷惑がかかったあとの僕自身の対応の問題です。
しかしこうやって、まわりに何を言われてもやる、まわりに何も言われなくてもやる、そんな毎日を過ごせている自分は幸せなのでしょうね。
そうやってやりたいことをやり続ける過程の中で、まわりに伝える、というものがついてきます。でも僕は、まわりにわかるように伝える必要がある、ということが、めんどくさい、と思ってしまうのです。漠然とではありますが、伝える、ではなく、伝わる、そんな環境が望ましいな。
想いが伝わる環境か、それが望ましいし、どうあってもこれから僕のやりたいことは環境づくりなのですね。
今の僕は、伝えることに関する主体的と受動的のラインがよくわかってなくて、これ以上の言葉を使うと受動的に申し込んでもらうことになって、自分で選択した、という自覚がないままにではないか、なんて考えてしまいます。
考える必要がないことなのかもしれないけど、けど自分が理想とする状態、対等な関係性で人が集うこと、それを手放す気はないし、これから先も追い求めていきます。そう、まだ自分の中で表現のラインができあがっていません。仮説も、具体的に何を求めているのかすらも。
実際、わからないことがあれば訊けばいい、と僕は思っています。手取り足取り教えるような、そんな伝え方は好きじゃないから、あくまで自立につながるような、そんな伝え方がしたいです。自分にもまわりにも主体性を重んじて。
わからないことがあれば訊けばいい、その部分において、僕も人に訊けていないので同じことなのですが、逆に、訊きたい、と思うほどの価値を感じるものを提供できていない自分がいるのです。
だから、価値はきちんと伝える必要があるのかもしれません。僕が持っているその価値を、必要としている人に届ける責任があるのかもしれないです。
今日と明日で予定していたワークショップ、ダイアログの場のつくり方 #2 @ 東京の開催を中止 ( ダイアログの場のつくり方 #2 @ 東京、開催中止のお知らせ。 ) したことで、そんなことをあらためて思いました。
この場の価値は何なのか。それがまわりにどう伝わるかはわからないけど、僕としてのこの場の価値がまずなになのか、それがすぐ答えられる自分なのか。実際、目の前にいる人に訊かれると確実に答えられるのですが、文章にするといつもね、ぼやっとしてしまうのです。
この前ふと思ったのですが、旅先で人と出逢ってダイアログして、物を書きながら自分とダイアログして暮らしていけたら幸せだなあ、って。先の話した文章にするとぼやっとしてしまう、ってことも、自分がこうして生きてきて見て聴いて体験して感じたことを子孫に遺したい、という想いもあって、最近はよく小説の1ページ目の書き出しを読み比べながら自分なりの文章を探しています。
たくさん読んではたくさん書いて、また読んでまた書いて、それで自分の基本とする型に出逢えるといいな。それを突き詰めていけばまたファシリテーションのように自由に、自分のスタンスとして生きていけるのではないかなと思います。
こんな葛藤を自分の内側で楽しみながら、そう、僕としてはこのような内面でのやりとりは、いろんなことが感じられて楽しいのです。いろんな自分に出逢えて、それがまた表現のきっかけになって。
そうか、僕は表現者でありたいのですね。自分を表現しながら生きて、それも生き方自体でそれを表して。それはまわりに何を言われてもやるし、まわりに何も言われなくてもやる、どうやらこれからも、そんな毎日を過ごしていきたいみたいです。
[ 二十四節気 ]
秋分 ( しゅうぶん ) 9/22 頃〜
太陽は真東から出て真西に入り、春分と同じように、昼とよるの長さが等しくなります。秋分の日とその前後三日間を合わせた七日間が、秋のお彼岸です。
参照 うつくしいくらしかた研究所
おしまい
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
1977年、広島生まれ。ファシリテーター。広島県竹原市と岩手県盛岡市の二拠点生活+旅。スキナコトヲ スキナトキニ スキナトコロデ、とういう生き方。ファシリテーターとして促すのは、目の前の相手の人生。
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