けいちゃん、またね。| いま、ここにあるもの #030


Ver.1.0.3



– いま、ここにあるもの。ここにある想い。-


2015年11月18日。この日に広島に戻ったのは、天に召されたけいちゃんに出逢うため、であり、見送るため。大阪から夜行バスに揺られて、広島駅の北口である新幹線口に着いた時には雨が降っていました。


雨



11月16日の夜は、友人のライブに行っていました。終了後に演者さんたちと話をしていたら突然、けいちゃんが天に召されたことを告げるメッセージが届いて。あの日のライブ自体がちょうど、僕にとって、大切な人がこの世を去ることに対して折り合いをつけること、そしてきちんと今を生きること、そんな想いを唄にのせて聴かせてもらっていたような、そんな感覚がありました。

もしかしたら、あのライブのあとだったからすんなり、けいちゃんがこの世を去った、という知らせを受け容れることができたのかもしれません。ふり返るとそう思えます。




翌日の、11月17日の夜に兵庫県西宮市で読書会を開催したあと、23時大阪発の夜行バスで広島へ。ありがたいことに、読書会の終了後にそのバス代を交換してもらえて。「 晩ごはんに食べて 」と受けとったタコ焼きを持って、大阪駅に向かいました。そして、バスの中で眠りながら広島に向かいました。

実はこのあと、岐阜県多治見市に向かう予定があったのです。でも、その予定が数日前に無くなって。そのおかげで広島に戻ることができました。しかも、多治見での予定が入ったので、その周辺は特に他の予定を入れずに過ごしていました。それですんなり、広島に戻るという決断をすることができたのもあります。




広島駅に辿り着いたのは、まだ朝の早い時間。通勤や通学のピークを迎える前の、少し静かな広島駅のカフェで、僕はただ無心にパソコンで言葉を綴ろうとしていました。でもなかなか、言葉が浮かんでこなくて。だから言葉を綴るのは一旦やめて、写真の整理や投稿などをして過ごしていました。

そして駅の近くのゲストハウスでシャワーを浴びさせてもらい、広島駅でファシリテーション仲間と合流しました。二人で珈琲を飲みながら、今回のことや最近のことなどを話して、告別式に向かう前の時間を、静かに心を整えながら過ごしていました。


ベンチと樹と空


けいちゃんと最後に逢ったのは、8月に開催した DIALOG LIVE 。自由 × 旅、というテーマで一緒に対話をさせてもらいました。イベントが終わって数人でお茶をして、そして近くのホテルのロビーに座って、ふたりでイベントのふり返りをして。

その当時、僕は Facebook から離れていたので読んでなかったのですが、今回のことを僕に伝えるために連絡してきてくれた仲間のひとりが、Facebook に投稿されていたこの文章のことを教えてくれたのです。それを、そのまま貼付けさせてもらいます。


画像の説明

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2015/07/04

昨秋マウイ島に行ったとき、さまざまな偶然が重なって、地元の「 シャーマン 」が私たちのために儀式(?)をしてくれることになりました。清流につかって禊を受け、石の積まれた自然の中であれやこれや。俗世で普通に生きている私の人生の中では、かなり特別な体験でした。最後にシャーマンさんが私たち一人一人にことばをくださる場面がありました。残念なことに何を言ってもらったのかよく覚えていないのですが、強烈に記憶に残っているのが、最後の一言 You are free.

今まで、私は自由だとなんとなく思い込んでいたけれど、ひよっとして違うのかな。。。。すごく引っかかりのあることはでした。


時は変わって先日。何年もの間断続的に「行方知らず」だったKくんから「広島に帰ってきてるから」と連絡をもらい、ランチに誘いました。
まっくろくろに日に焼けて骨太な感じは相変わらず。彼は、ここ数年間、アジアや日本各地を回り、そこでできた縁を頼りながら投げ銭形式で「 ダイアログ(対話)」のワークショップを開いて生活してきたらしいです。

「 へえ~!そんなんで生きられるんだ~自由人だねえ♪ 」

話を聞いてみると、無計画なわけでは全然ないし、世間の枠組みにいないだけ、よくよく自分で考え、責任を持たないといけない場面もたくさんあるし( ま、自由ってそんなものだとは思うけれど )。しかも、そんなKくんが自由人かというと彼的にはそうでもないらしい。しかもしかも、私が彼に対して思う「 自由 」と自分について使う「 自由 」とは、自由の意味合いが違っているような気もして、私はますます霧の中。

ところで、「 対話 」は私にとっても旬の関心事。興味を持ってあれこれ尋ねているうちに、「 じゃ、広島で一緒にダイアログ(対話)やってみない?」ってことになりました。

テーマは私から出した「 自由 」にKくんが「 旅 」をくっつけて、「 自由 × 旅 」です。

8月8日(土)15時~17時。会場は、広島市中区小町yo-hakuです。聞くだけでもOK、対話に加わるのも自由みたいです。
興味のある方、声をかけてください。

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2015/08/08

【ダイアログ ライブ「 テーマ:自由 × 旅 」】が終わりました。

今、私の周りには、いろんな次元のたくさんの「自由とは」が浮遊している感じでもあり、( 誰かも感想として言っていましたが )実はバラバラのそれらを通して、その向こうにあるひとつの大切なことを語り合っていたようでもあり、もやもやっとした満足感( ← へんな表現ですが )があります。

みんなと別れてバス停まで歩く道すがら、Kくんがさりげなくつぶやいた「『 当たり前 」が消えると『 有難い 』に変わるんですよね 」。彼の旅の体験に裏打ちされたことばだと感じ、最後にまたひとつ「 お持ち帰り 」をもらった感じです。

参加してくれた人はみんな、私にこのイベントの内容説明を求めることもなく、参加を決めてくれた人ばかり。「 今日何するの?」と、会場で何人かにきかれて、気づきました。・・・これって「 当たり前 」ではなく「 有難い 」。じみじみ思い返しています。私、みんなにちゃんと言ったかな~「 ありがとう!」って。

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けいちゃんは僕に、存在承認、ということを体感させてくれた仲間のひとりでした。当時、自分のやっていることを認めて欲しくてたまらなかった僕は、いろんなことを受け容れてくれるけいちゃん達と過ごす機会がどんどん増えていきました。きちんと話を聴いてもらえるし、話したことを解ろうとして質問してもらえるし。

かといって依存するわけではない、いい距離感で。自分という存在にまっすぐに目を向ける、そんなきっかけを与えてくれた人のひとりです。そして、自分の枠の外のことに対して心から興味を持って、きちんと相手の目指す先を理解し尊重できる、そんな尊敬するコーチでもありました。






ファシリテーション仲間と話をしていたカフェを出てから、雨の中を歩いて白島にあるお寺に向かいました。赤い大きなバックパックを背負い、お寺の山門をくぐると、そこには他のファシリテーション仲間達がいました。

仲間たちと一緒に、天に召されたけいちゃんを見送った後は、数人でランチを食べ、そこでまたいろんな話をして。けいちゃんの投稿にあった通り、僕は行方知らずではあったので、その間の話もさせてもらったりしながら。


空


僕は今回のことで、けいちゃんから2つのことを受けとりました。


ひとつ目は、「 人はいつ、この世を去るのかわからないんだよ。こばけんはどう生きるの?」という、とても大切な問い。大阪でもこんな話が出たところだったので、自分がやりたいこと、カタチにしていきたいことに向けて、優しく背中を押してもらった、そんな感覚がしています。

ちょうど直前に開催した、ワークショップでも話に出たのです。次の日の朝、起きれるかどうかなんてわからない、って。それに、読書会で今回のけいちゃんの話を出したあと、その後に引いたカードからも、そんなメッセージが現れました。

今日が最後の日だと思って、今この瞬間を生きること。自分が生きてようが生きていまいが、明日も世界は続くと信じて種を蒔くこと。このふたつのことの大切さを、より実感させてもらいました。




ふたつ目は、広島のファシリテーション仲間に再会する機会です。全員に再会できたわけではないのですが、自分が旅する生活をはじめてから、広島に戻ってもなかなか、タイミングが合わなかった仲間たちと再会させてもらえました。

一緒にファシリテーションを学び、一緒に場をつくり続けてきた仲間が元気に過ごしている姿を自分の目で見ることができて、とても幸せに思います。ここ数年、タイミングが合わなくて定例会にも参加できてないけど、僕にとってはいつまでも、ファシリテーションを学び合った大切な場所だし、ファシリテーションを学ぶための最適な場だと思っています。






けいちゃんを見送ったあと数日、僕はそのまま広島市内で過ごしました。その時間はこれまで、自分が手にしたことを改めて整理する時間になりました。自分の心身を整え、フラットで穏やかな状態を保ち、物事の対極にきちんと目を向けられる、そんな自分をいつまでも継続し、カタチにしたいことをカタチにするためにも、この先も旅を続けます。

やることは明確なんです。あとはどんどんカタチにしていくだけなので。それがカタチになるのか、志半ばで倒れるのか、他の何かが見つかるのか、それは今の僕にはわかりませんが、今回受け取ったことを大切なことを胸に、今を生きる、ということを続けていきます。






最後にもう少し。

別れは寂しいくて哀しい。ということは、対極である楽しくて嬉しいも存在しているはず。人の死に対してそんな風に思ったのは初めてですが、天寿をまっとうすることや、この世に生まれた役割を果たすことなどに対する喜びや歓びがあるのではないか、と漠然と、でも直感的に考えることができました。

そんなふうに考えることができたのは、物事のすべてに陰陽があるのであれば、今回のこの哀しい出来事にも、嬉しいという視点があるのではないか、という問いがきっかけです。




実際、告別式の中でひとりだけ、白シャツで参列している自分を俯瞰していると、その場にあった哀しみや寂しさと一緒に、喜びを抱いているけいちゃんを感じることができました。それはただの勝手な妄想だったのかもしれませんが。

今回受けとったことのひとつ目の問いかけは、告別式の最中にけいちゃんがそう言ってくれているように思えたのです。それも、哀しい顔をしているのではなく、いつも通りの好奇心旺盛な笑顔で。もしかしたらあの場で、黒の喪服の中に一人だけ、白を纏っていた自分だったから、そう思えたのかもしれません。


真相はわかりませんが、どちらにしてもあの場に、哀しみや寂しさと一緒に、楽しさや喜びも存在していたのだと思います。哀しみも寂しさも、楽しさも喜びも、全部同じものからできている。陰があれば陽があり、光があれば影があり。それが僕らの生きる世界のようです。





けいちゃん、またね。
どうもありがとう。

また次に出逢える時を愉しみにしておきます。




おわり